あふれるような歴史に包まれて

谷崎潤一郎の小説【吉野葛】を読みながら






神武天皇 天智天皇 天武天皇 持統天皇 後醍醐天皇 蘇我一族 曽我の稲目 蘇我入鹿 蘇我馬子 曽我えにし  物部氏 大化の改新 壬申の乱 大宝律令 談山神社 源義経 静御前 聖徳太子 天空の城高取城 お里沢一物語 吉野山 いも山瀬山 宮滝遺跡 宮滝利休 

聞きなれた多くの人物やその舞台になった場所が出てきます。
大和の国、奈良県のある田舎町を生家とする私はおのずと歴史に拘わってきたように思います。
古事記や日本書紀に出てくる地名や人物は、主に奈良県と大阪、京都が多く、それ故に幼い時から親しみを感じていることは間違いないようです。

時たま明日香村などへ行くと何気なくたちどまり、田のそばの道からでも天皇陵や当時の遺跡が目に入ることがありますね。

 今やその天皇は継承され、やがて5月には退位されます百二十五代目昭仁天皇だと思うと、奈良県人として何かは分かりませんが、誇らしげなものを感じます。それって現在皇居周りを、健康のために走っている方が感じるものと同じではないでしょうか。
 
 駅のホームで電車待ちの老人たちが、わいわいがやがやと語り合っている声が聞こえてきて、耳を立てると、蘇我入鹿だとか曽我稲目だとか蘇我馬子だとか、さすが場所柄と思わせるセリフが飛び交っています。

「曽我はアイウエオだね」と自慢げに言う方も、
そんな話を延々と、
 
 それぞれ相当勉強してこの地を目指してきているようで、そのつややかな顔で、きりりとしまって、まさかこの年齢になると、ボケが始まるとは考えられないと私には同じ年齢として思えます。

 曽我一族と言えば、私は昨年「葛城山哀歌」と言う小説を書き上げたところで、まだ湯気が立っているような状態ですが、(それから後に「葛城山」と改名しています。小説家になろうに掲載)

 そもそもこの葛城山は葛城一族が崇拝した神秘の山で、やがて三輪山を崇拝する一族にその地位を乗っ取られて大和朝廷が起こり、その後敵をとる勢いで葛城族に近い蘇我入鹿が勢力を拡大し、台頭してきましたが、力が付き過ぎ、中大兄皇子と中臣鎌足によって首をはねられ、大化の改新が起こり、大宝律令が制定され、飛鳥時代が始まったようですね。


 蘇我入鹿の首をはねる計画は、中大兄皇子と中臣鎌足が企てたのですが、その計画は桜井の多武峰の談山神社の上の広場で作られたと聞いていたので見に行ってきました。

 ばかでかい杉の木が仁王立ちしていて、まるで何もかもを見届けていて、木たちは全てのことをわかっているようにも思えました。

 そして談山神社の談山とは、まさに蘇我入鹿の首をはねる相談をしたことから由来されていることを知りました。

 この談山神社から山越えに飛鳥に降りる細道があり、もしかするとこの道を中大兄皇子と中臣鎌足が、
通いなれた道ではないかと思うと、堪らなくなってきました。

 それが暗殺計画の相談であったと、殺気立ったものを想像すると。
何しろ1300年前の日が昨日のことのように思えてきて。

権力争い? それって昔も今も人の思うことは同じ様なものなのでしょうね。









 飛鳥時代は藤原京が舞台であり、その場所は橿原市で118年続き、その後、平城京時代にその場を奈良市に移し、京都へ渡り平安京となり、その後鎌倉時代になり南北朝時を経て、室町時代に、それから安土桃山時代をはさみ江戸時代と移り変わったようですね。 

 話をもとの奈良県のことに戻しますと、
この藤原京時代に吉野で離宮が誕生しています。離宮とは朝廷の別荘のような場所で、吉野に出来たその離宮は「宮滝離宮」と言われ、藤原京時代の持統天皇などが再三この地を訪れ、朝廷が司る諸問題を話し合い占っていたようですね。

 
吉野の片田舎で国を司る中枢が集まり、捕れたてのアユを塩焼きして「うまか、うまか」とほう張りながら酒を酌み交わし、宴会混じりで政治をしていたのでしょうね。
 
政治家が高級料亭で話し合う現在のように・・・

 細かなことはわかりませんが、奈良で生まれた人間として、これもまた貴重なものを感じるわけです。
今や皇室は東京であり、または京都が全てです。

 でも奈良もこれまでの日本の誕生には、大いに貢献していた在所が相当あることも事実で、これからも時間が許す限り、この奈良を舞台に私は活字で彩りたく思う次第です。

 
それはともかくすでに5月 元号も変わり すっかり夏の気配を感じる時節となりました。
 
 春には、桜の吉野、宮滝遺跡、この二つをセットで訪ねるのも少々頭の体操にもなり有意義な時間を過ごせるでしょうね。
          

宮瀧離宮とは 山里深いこの地のことは誰もが知っているわけではありませんが、歴史上で「壬申の乱」と言う出来事は多くの方が知っていること。


 この壬申の乱とは天智天皇が息子の大友皇子を太政大臣にすえ次期天皇と考えていて、それ故に天智天皇の弟の大海人皇子は、不服ながら一歩退き、隠棲のごとく生きる事を心得た様で、それは宮瀧の地で静かに暮らすことであったのです。

 ところが大友皇子はおじさんが煙たかったのか、それともいつの時代でもあるように、例えば源頼朝と義経の関係や、今近隣の国で統一と騒いでるあの国でもあった話。

 つまり親族を毒ガスを使って命を奪った話は、何度もニュースで見ている事実。源兄弟の話も吉野地方には弟の義経が逃走を企て身を隠したと言う御堂があり、はっきりと残っている足跡や建物が現存して居て、いつの時代でも同じことが繰り返されるのだと思います。


谷崎純一郎の小説「吉野葛」の中にも義経と静御前の逃亡先が書かれていて、それが噂としても悲話には間違いないようです。兄弟の骨肉の争い 実は殺人事件などと言うものはいつの時代でも親族で起こることが最も多いのは実にわびしい話ですね。


 更に壬申の乱の起こりは天智天皇と弟の大海人皇子が女性(額田王)のことで張り合った説もあるようです。
 
事件の表向きは息子の大友皇子が、胡散臭いおじさん大海人皇子の首をとることを企てていると、宮滝の地で静かに暮らしている大海人皇子の耳に入り「これはただ事ではない」と考え、数十人の兵隊を連れ近江に向かったのです。途中多くの兵を寝返りさせ集め味方のさせ、大友皇子の住む近江に着いたときは数万になっていたようです。

 結果、大海人皇子が大友皇子を打ち倒して、都を近江から再び飛鳥に戻し大海人皇子はこの事件をきっかけになり天武天皇を名乗ったのです。
これが壬申の乱の顛末です。



宮滝は縄文時代ごろからの遺品などが出土しているようです。ですから宮瀧遺跡で在り宮瀧離宮でもあるのです。
知ればそれだけ面白い、意味深い旅になるでしょう。

この宮瀧遺跡の歴史は縄文時代からの出土品があり、隣国から多くの渡来人がやってきていたことも考えられ、
先日百舌鳥古墳群が世界遺産に登録される運びになったようですが、同じ古墳前方後円墳が韓国南部に多数あり、その中に納められた棺が日本にだけ生息している高野槙の木であるようで、4世紀ごろには想像する以上に大陸と行き来していたかも知れません。

百舌鳥古墳群の詳細がわかれば、近年いがみ合っている両国はとんでもない過ちを犯していることに気が付くかも知れませんねぇ。










私の本棚 小説「葛城山」検索小説家になろう  葛城山 作者 筆名 大谷一夫


神武から 日本の始まりの神武天皇の里へ、 プチ旅行はいかがですか?
いにしえ人を慕って大和路を歩いてみませんか?
大和の国こそまほろばの里、私は東京でも暮らしました。名古屋でも暮らしました。大阪でも暮らしましたが、でも奈良県で生まれた私は、おのずと歴史に拘わってきたように思います。

  
全て神武から始まる心の旅
神武天皇をお祀りしている橿原神宮のある畝傍山全景(橿原市)    





橿原神宮・明日香村・談々神社・塩街道・聖徳太子・曽我一族・天智天皇・壬申の乱・天武天皇・大化の改新・大宝律令・中臣鎌足・葛城一族・高取城・お里、沢市・宮瀧利休・吉野峰・桜・後醍醐天皇・頼朝義経静御前・竜門神社・豊臣秀吉等に触れながら話を進めたく思われます。

少しは馴染んで戴けたでしょうか?

飛鳥時代と言えば曽我一族の顛末
 曽我一族と言えば、私は最近「葛城山哀歌」と言う小説を書き上げましたが、まだ湯気が立っているような状態ですが、(それから後に「葛城山」と改名しています。)

(この小説は検索で出てきます。「小説家になろう、葛城山で)  

小説の舞台になった葛城山は葛城一族が崇拝した神秘の山で、

やがて三輪山を崇拝する一族にその地位を乗っ取られて大和朝廷が興り、その後敵をとる勢いで葛城族に近い蘇我入鹿が勢力を拡大し、台頭してきましたが、力が付き過ぎ、仲間の中大兄皇子と中臣鎌足によって首をはねられ、大化の改新が起こり、大宝律令が制定され、飛鳥時代が始まったようですね。

645年(虫殺し大火で滅ぶ曽我の家)私などはこのように覚えたように記憶しています。


大化の改新で何が制定されたのかは、今も生きている戸籍が初めて取り入れられたようです。



それから701年になり大宝律令ができていますが、それは一口にって税金を国民から取ると言うことと、治安を守る法律が出来た中央集権国家の誕生でもあったわけです。


この大宝律令の大宝こそ今なお続いている元号の始まりであったわけです。
ですから私のようなややひねくれ者はこの令和と言う元号が嫌で、それは決まりごとが制定されたこの大宝律令の文字でもあるわけだからです。 いわば命令形の文字、被治者の立場の者は誰でも嫌ですからね。
 

蘇我入鹿の首をはねる計画は、中大兄皇子と中臣鎌足が企てたのですが、その計画は桜井の多武峰の談山神社の上の広場で練られたと聞いていたので見に行ってきました。
ひっそりとしたその広場で中大兄皇子と中臣鎌足の心の内を読んだりして、私らは雑談を・・・


 ばかでかい杉の木が仁王立ちしていて、まるで何もかもを見届けていて、木たちは全てのことをわかっているようにも思えました。

 


そして談山神社の談山とは、まさに蘇我入鹿の首をはねる相談をしたことから由来されていることを知りました。


 この談山神社から山越えに飛鳥に降りる細道があり、もしかするとこの道を中大兄皇子と中臣鎌足が、通いなれた道ではないかと思うと、堪らなくなってきました。

それが>暗殺計画の相談であったと、殺気立ったものを想像すると身震いしてきますね。
何しろ1300年前の日が昨日のことのように思えてきて。


権力争い? それって昔も今も人の思うことは同じ様なものなのでしょうね。


 飛鳥時代は藤原京が舞台であり、その場所は橿原市で118年続き、その後、平城京時代にその場を奈良市に移し、京都へ渡り平安京となり、その後鎌倉時代になり南北朝時代を経て、室町時代に、それから安土桃山時代をはさみ江戸時代と移り変わったようですね。 



 話をもとの奈良県のことに戻しますと、
この藤原京時代に吉野で離宮が誕生しています。
離宮とは朝廷の別荘のような場所で、吉野町宮滝に出来たその離宮は「宮滝離宮」と呼ばれ、藤原京時代の持統天皇などが再三この地を訪れ、朝廷が司る諸問題を話し合い占っていたようですね。


 吉野の片田舎で国を司る中枢が集まり、捕れたてのアユを塩焼きして「うまか、うまか」とほう張りながら酒を酌み交わし、宴会混じりで政治をしていたのでしょうね。
 
政治家が高級料亭で話し合う現在のように・・・


 細かなことはわかりませんが、大和の国、奈良で生まれた人間として、これもまた貴重なものを感じるわけです。
今や皇室は東京であり、または京都が全てです。



 でも奈良もこれまでの日本の誕生には、大いに貢献していた在所が相当あることも事実で、これからも時間が許す限り、この奈良を舞台に私は活字で彩りたく思う次第です。


それはともかくすでに秋の気配 温度計も少しは落ち着いてきて、朝夕は涼しくなってきました。
 そこでお勧めしたいのは、談々神社の紅葉は格別で、例年多くの方が来られます。宮滝遺跡、この二つもまた隠れた史跡でしょうね。 秋の吉野も風情があり、道中にある明日香村などは誰もが知っている名所
訪れる価値十分すぎる位あると思われます。
歴史はいつの季節であっても変わることなく悠然と構えているもの。秋とは言わず気が向けば訪ねてみることをお勧めいたします。
          

宮瀧離宮 山里深いこの地のことは誰もが知っているわけではありませんが、歴史上で「壬申の乱」と言う出来事は多くの方が知っていること。

 この壬申の乱とは天智天皇が息子の大友皇子を太政大臣にすえ次期天皇と考えていて、それ故に天智天皇の弟の大海人皇子は、不服ながら身を引き隠棲のごとく生きる事を心得た様で、それは吉野の宮瀧の地で静かに暮らすことであったのです。
 

ところが大友皇子はおじさんが煙たかったのか、それともいつの時代でもあるように、例えば源頼朝と義経の関係や、今近隣の国で統一と騒いでるあの国でも数年前にあった話。
 

つまり親族を毒ガスを使って命を奪った話は、何度もニュースで見ている事実。源兄弟の話も吉野地方には弟の義経が逃走を企て身を隠したと言う隠れ御堂があり、はっきりと残っている足跡や建物もしくは言い伝えが現存して居て、いつの時代でも同じことが繰り返されるのだと思います。

 更に壬申の乱の起こりは天智天皇と弟の大海人皇子が女性(額田王)のことで張り合った説もあるようです。


 事件の表向きは息子の大友皇子が、胡散臭いおじさん大海人皇子の首をとることを企てていると、宮滝の地で静かに暮らしている大海人皇子の耳に入り「これはただ事ではない」と考え、数十人の兵隊を連れ近江に向かったのです。途中多くの大友皇子側の兵を寝返りさせ集め、大友皇子の住む近江に着いたときは数万になっていたようです。



 結果、大海人皇子が大友皇子を打ち倒して、都を近江から再び飛鳥に戻し、大海人皇子はこの事件をきっかけになり天武天皇を名乗ったのです。
これが壬申の乱の顛末です。



宮滝は縄文時代ごろからの遺品などが出土しているようです。ですから宮瀧遺跡で在り宮瀧離宮でもあるのです。 知ればそれだけ面白い、意味深い旅になるでしょう。

面白くて為にもなり、歴史的にも奥深い意味がある建物の一つに、いえ、建物ではなくその跡地ですね。
つまり城跡なわけです。
今じゃ苔むして石垣だけが残るその建物跡は「高取城跡」です。

橿原市・明日香村・高取町・大淀町・下市町・吉野町・桜井市・御所市・五條市奈良県中南部には多くの史跡がありますが、天空の城で在った高取城は日本の城の中でも珍しく、お城の歴史に興味がある方なら尋ねることをお勧めします。

この城のことについてなど多くの文献に詳しく書かれていて、敢えてそのようなことに触れませんが、
実はこの城にかかわって生きていた我が先祖が存在したのです。

常日頃は畑を耕し、数々の食料を栽培し、また調達し、高取城の賄を一手に引き受けながら、剣術の訓練も耐えまなく繰り返し、高取城を守っていたことを知りました。

ですからどういう立場で在ったかなど知りませんが、大きな家で住んでいたようで小作人でさえ27人も数え、相当な力があったかも知れません。
 
それは亡き母が我が家のルーツを何度も聞かされていたようで、母がまだ元気だったころに、高取を訪ね、母が幼少期に過ごした大きな家を探し当て、朽ち果てていたようですが、しばし幼き頃を涙を浮かべながら思い出していたようです。

 何故なら、母の生家は小作人27人が居た様ですが、大正時代後半になって母の父が博打で負け、財産全てを取り上げられたようです。勝気な母は「八百長に引っかかった」と言っていました。

 屋敷を取り上げられ、真夜中に提灯の明かりを頼りに家財道具をリヤカーに積み、大阪へと身を隠すように旅だったようです。

 母は過酷な状況を把握できず、お嬢さんで育てられていたことから、駄々をこね涙涙を繰り返しながら祖母に手を引かれて大阪へ向かったようです。
 

母たちが住んでいたその屋敷は、大きな蔵があり、小作人が住み込んでいたらしき部屋がいくつもあり、蔵の中には立派だっただろう籠も置かれていて、

優雅を思わせる過去があったことを、朽ち果てた何もかもから汲み取れる状況だったことを、帰るなり興奮気味に話していました。

それがお城の近くのどの辺りで在ったのかを聞くこともなく母は他界し、今では幻で、私も母の歳を追い抜いている今、機会があればぜひ訪ねてみたい気がします。


 栄華で在った筈の母の家族は、サイコロとお茶碗で一夜にして先祖から授かった何もかもを失ったわけです。 まるで昭和の時代・・・いえいえ、それよりもっときつかった大正の時代の話です。

私の高取城はこんな思い出を頭の隅に置きながら、爽やかな秋の風を苔むした石垣から感じながら登ることになりました。

 
そして同じような話で、いつの日か機会があれば、桜井市の紅葉で有名な談々神社へ行き、明日香村まで下る小道も歩いてみたいです。
 その道は想像ですが、中大兄皇子と中臣鎌足が、1300年前に何度も連なって歩いた道。だと思うからです。

力が付き過ぎて邪魔になってきた蘇我入鹿を暗殺する計画が起こり、中大兄皇子と中臣鎌足が幾度も相談して暗殺計画をまとめあげた。

 談談神社の「談」の字は、蘇我入鹿を暗殺する相談をしたことから来ていると言われます。
ですから、そのことを想像しながら歩いてみるのも面白いかなと考え、
大化の改新が起こったそもそもが、この道から始まったかも知れないと思うと堪らなくなります。


中南部奈良で起こった数々の出来事 一度は耳にしたあの出来事を覗いてみませんんか?
これまでの出来事を時系列で並べています。
◆神武天皇の誕生(込み入ったことは書くつもりはありません)

神武天皇は実は後につけられた名前で、それまでの名は、カムヤマトイワレヒコノミコトです。
九州宮崎の日向の国から東征に出掛け、苦難の末に大和を制圧し、畝傍山に橿原宮を築き、後に初代の天皇、神武天皇となりました。(現在の天皇は125代昭仁天皇です。)

神武天皇が東征の間に多くの出来事が起こっていて、大阪から大和に向かっていましたが、地の豪族に阻まれ仕方なく海に出て、紀伊半島を回り三重県熊野から奈良県吉野を目指しました。

熊野では大きなクマに襲われ窮地に曝されましたが、土地の豪族に助けられ、更にその時八咫烏が飛んできて、吉野までの道案内を申し出てくれ、やがて神武天皇一行は大和を制圧し、橿原の宮に落ち着く事となったようです。
ここで登場している八咫烏は、日本サッカー協会のシンボルになっている三本足のカラスで、日本代表試合で、選手の胸にそのワッペンが付いています。

またその八咫烏は奈良県吉野町の北岡酒造で同名の日本酒を製造しています。(辛口)

◆飛鳥時代

聖徳太子 幼いころはやんちゃな少年で、十代半ばで大淀町比曽の世尊時で飛び跳ねていたようです。
またそのお寺は、豊臣秀吉が来て庭にある立派な塔を見るなり「これをもらいたい」と言われ、その塔は
京都三井寺に今でも建っているようです。



◆曽我一族  そがあかえ・そがいなめ・そがいるか・そがうまこ・そがえみし 
この様にみんなあ行です。
曽我馬子・・・石舞台の主だと言われています。
曽我入鹿・・・大化の改新に代表される事件 中大兄皇子と中臣鎌足によって暗殺された人物




◆中大兄皇子 蘇我入鹿を暗殺して大化の改新をなしとげ、我が国が初めて中央集権国家を目指し、戸籍制度を充実させた。


◆中臣鎌足・・・中大兄皇子と組んで蘇我入鹿を倒しまた物部氏を追放し、仏教の大切さを説き広めていった。


◆談々神社・・・トップページに書いてあります。


◆大化の改新・・蘇我入鹿が暗殺された事件と戸籍制度が日本中で実施されたこと 


◆宮滝離宮  隠棲のごとく暮らしていた天智天皇の弟大海人の皇子が、天皇継承のいざこざに引き込まれ兵を立て近江の宮へ 天智天皇の息子と戦いになり倒してしまう。後に天武天皇と名を改める。


◆壬申の乱  天智天皇の息子大友皇子が大海人の皇子を警戒しているといううわ
さが出て暗殺されるように捉えた大海人の皇子が豪族を連れ大友皇子を奇襲する。圧倒的な勢力の差で大海人の皇子が打ち勝ちその後天武天皇を名乗る。


その妻が持統天皇 持統天皇は宮滝離宮が好きで再三この地を訪れていた様です。
焼きたてのアユをほう張り乍ら「うまか、おいしかござる」と言ったかは知りませんが・・・



この壬申の乱が起こるまでに、天武天皇、当時は大海人の皇子の時代に、吉野で暮らしていた大海人の皇子は追っ手に追われ、吉野窪垣内に逃げ、河原で船を操る年老いた船頭が、船をひっくり返してその中に隠れ助けられましたが、



追っ手がその時犬を連れていて、船の下に隠れていた大海人の皇子に犬が吠えたので、船頭は咄嗟に犬を叩き殺して大海人の皇子は逃げる事が出来た言い伝えが、
それからこの地で犬を飼った家は火事になったり不幸が起こったり・・・ですからそれから1000年以上経っていますが、誰も犬は飼わないようです。




頼朝の討伐 義経・静御前の悲しい運命 知り合いの家が神社で、聞けば源義経が兄頼朝の討伐から逃れ身を隠し、それで知り合いの家(つまり山口神社)に身を隠していたようです。何しろ1300年前の話で・・・

そもそもなぜそのような話が存在するのかと言いますと、義経が母常盤御前と共に吉野まで来た理由に、
母がそもそもこの竜門の地の生まれで在ったかも知れないと言うわけです。

常盤御前は京都で賄のようなことをしている身分の低い女でしたが、今で言うミスコンテストに出て見事一番になり、それで美貌がゆえに義経の父の目に留まり、源家に嫁ぎ義経を産んだのです。

兄頼朝とは腹違いで兄は3番目の子供、義経は9番目の子供
平家には勝ちましたが、兄弟の中は悪くなる一方で、義経は兄から常に命を狙われる悲しい運命を辿ることになりました。

妻静御前と一緒に吉野まで兄から逃げてきた義経でしたが、追っ手に見つかった妻静御前は拘束され、兄の住む鎌倉に連れて行かれ、二人の中は無情にも引き裂かれたのです。

義経の男の子を産んだ静御前でしたが、兄の反対から子を死なせる羽目になり、追い打ちを掛けるような悲惨な運命を辿ったようです。



義経と静御前が兄頼朝から逃げている時に藁をもすがる思いで山口神社に来たのだろうと思います。
それが言い伝えになっていて




後醍醐天皇 南北朝時代 吉野の宮 後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒して天皇中心の国家を作ろうとしたが、その計画がばれて逆に幕府に沖ノ島に島流しにされるのです。

しかし後醍醐天皇の側近には楠正成、足利尊氏、新田義貞などの優秀な武将がいて、力を合わせて鎌倉幕府を倒したのです。


そして後醍醐天皇は天皇中心の政府を作ろうとしましたが、武家の位は低く、そこで気にいらなかった武将の足利尊氏は、後醍醐天皇に背き、後醍醐天皇を追い出して後に京都で室町幕府を作るのです。

後醍醐天皇は奈良吉野迄逃げて、そこで吉野宮を作り南朝と名乗り、足利尊氏の幕府を北朝と言い、南北朝時代が始まったようです。

ただあまり長続きはせず、後醍醐天皇は吉野へのがれてからわずか5年で病死し、南朝は55年ほどで幕を閉じています。


この間、睨み合いが続いていたようですが、足利の三代目が出来た人で、お互い南朝の後亀山天皇と北朝の後小松天皇が話し合い、南朝が北朝に三種の神器を渡し、彼らも吉野を離れ京都に戻ったのです。

南北朝が終わり、室町時代の実質の始まりでした。